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人それぞれの人生を歩む中で、それぞれ異なる体験を持ちます。その体験の重みは、その人にしか、その人の歩みの中でしか感じることはできませんが、時として重過ぎる何かを背負っているようなことがあります。持つことにとても大切な意味がある場合が多く、丁寧に理解していくことが肝になります。

何かしら自分ができなかったとき、あるいは、判断したことで他の誰かに影響を与えてしまったときに、その影響をとても大きく重いものとして感じてしまうことがあります。特に、大切な存在であればあるほど、その重みが増していきます。時にその重みは、その人の人生に大きな影響を与えてしまうこともあるものです。

相手に重大な影響を与えてしまったからこそ、その重みを感じ続けていくことが、「私に対する罰なんです」という表現を使う方もいらっしゃいます。それがある意味、罪滅ぼしや、赦しのような位置づけになっていることが多いようです。

一方で、話をよく聴かせていただくと、実際には判断とは思えないことだったり、状況的にベストの判断であったりすることが多く、決して罰を受けるようなことではないと感じられることもあるものです。そのような場合には、相手が既に他界されていたり、あるいは、失敗を取り返すことができないような状況と認識していることが背景にあるようです。

そのような方は、多くの方に「そんなの気にしなくていいことだよ」「あなたのミスじゃないよ」「仕方なかったことだよ」と何度も言われながらも、それを消化できないわけです。状況にもよりますが、そういった場合は、その出来事からこれまで、そしてこれからのの意味付けを、一緒に考えなおしていくようなアプローチをすることで、新しい一歩を踏み出すお手伝いをさせていただくことが多いあります。

そのためには、その人にとってどんな大切な人だったのか、どんな思いでこれまで歩いてきなとか、その大切な物語を聴かせてもらい、寄り添っていくことが大切だと感じています。

心の中の出来事だからこそ、丁寧にひとつひとつ、その人のリズムで一緒に歩くことが必要だと、意識しなくてはいけない世界と考えています。

もっと急いで、もっとしっかり。

仕事をしていても学校の中でも、社会の時間の流れというものは人を追い立ててしまうことが多いものです。向上心という肯定的にとらえられることですら、他者を攻撃するツールになってしまうことが日常の中に当然のこととして埋め込まれていきます。誰しも、もっとよく生きたい、今よりもよく、という気持ちはあって当然のものかもしれません。それが成長に繋がっていく一部とも言えますし、それがモチベーションになることも当然と言えます。

一方で、その向上心は、そこに社会的な目的がない場合には、強烈なエゴとして存在していきます。そのエゴが自分の内側に向いているうちは、その人の動機づけになりますので、プラスの動きをしていきます。しかし、それが周囲に向けられたとき、強力な凶器・狂気となってしまうことがあります。

同じグループ、組織などに属している場合、同じ方向を見ることは大切なことですが、同じレベルを求めていくことはとても恐ろしいことでもあります。多くの場合、「努力が足りない」「やる気がない」などと非難され、挙句、「才能がない」「おかしい人」と偏見が強まっていきます。

ところが実際にはそんなことはなく、その人の置かれた状況の中で、最大限の努力をしていることのほうが多いわけです。その努力の質や客観的に見える「見え方」が、自分の思いと異なる場合、その向上心は凶器となって襲っていくことになります。そして多くの場合、その向上心は肯定されてしまうことになります。

人には人のいきる速度がある。

それはその人の置かれた環境であり、育ってきた過程であり、体験の積み重ねの上の経験であり、その生き様すべてが含まれています。それは評価すべきものではなく、認め受け入れていくものだと信じています。結果や成果が優先されることは社会の中で当然起こりえる部分でもありますが、結果や成果のために誰かの生き様が否定されるのであれば、それは違うと思うのです。

生きることは、その人の歩みであり、誰かに速度をコントロールされるものではありません。多くの違う速度があるからこそ、多様な見え方と、人の成長に必要な速度が生まれると思うのです。速さ、が優先される世界ではなく、生き様が優先される、加速することだけが善ではない、そんな空間、そんな場所でありたいと、ヒトらぼでは考えています。

様々な情報が簡単に手に入る中で、発達障がいというキーワードも多くの検索結果を得ます。自分はどうしてできないのか、なぜこんなに苦しいのかと悩みながら探す人、仕事を任せる立場として、どうやったらいいのだろうと考えながら探す人、それぞれがなんとかしようという思いに他なりません。カウンセリングの現場でも、私は発達障がいなのでしょうか?、〇〇さんは発達障がいなのでしょうか?という問いは増えてきているように思います。

もちろん、発達障がいかどうかは適切な医療機関の診断が必要になりますが、何かしらとっかかりが必要な状況であることは間違いありません。こういったケースで少し意識して欲しいことは、発達障がいの傾向は、実は多くの方に多かれ少なかれあるということです。世に出ているチェックシートを見れば、なんとなく当てはまるところは多い物です。その強度や周囲の環境によって生きにくい部分は人によって異なります。

ここでひとつ忘れて欲しくないことは、発達障がいが明確に当てはまらなくとも、明らかに強い特徴がある方がいる、ということです。それは、「感度の高さ」という特徴であり、「敏感」とも言い換えることができます。カウンセリングの現場でも比較的多いと思いますが、この敏感さ、というものは、周囲から見れば心配しすぎ、気にしすぎ、と取り合ってもらえないことが多く、本人の中では精神的な負荷が非常に高くなるという、なかなか理解してもらえない問題があります。気遣いが出来て、周りをよく見て、そんな特徴を合わせ持つことが多いため、余計に助けの手を差し伸べてもらえないわけです。

これは、他の人が気づけないことに気づく気からであり、他の人が "1" にしか見えない物が、たとえば、"0.1" 刻みで見えてしまうということです。わかってもらえないことですが、情報量が人の10倍であれば、それを処理する力も同様に消費する、その人にとっては、何気ない一日も終わってしまえば疲弊しきってしまうようなことになるわけです。こういった方に対して、気にしすぎだよ、ということはとても残酷なことです。見えないものが見える、気づけないことに気づけるという特徴ですから、自身で感度を調整することは決して簡単ではありません。

こういったケースでは、その人の特徴に対する理解とできる限りの環境調整(実際には話し方や声かけ、振る舞い)、そしてプラスのストロークが有効に働くように思います。自分にとっての当たり前は、相手にとっては当たり前ではないかもしれない、この当たり前で忘れがちなこと、この立ち位置にいることで、自分とは異なるひとりひとりを大切にできる可能性は広がっていきます。そんな寛容さが、少しでも広がればいいと感じています。

みなさんは、なんで他の人は気にならないのか、と思ったことはありませんか?

パワーハラスメント、セクシャルハラスメント、アカデミックハラスメント、モラルハラスメント・・・・など、多くのハラスメントの言葉が生まれています。被害を受けた方にとっては以降の人生に大きな影響を与えてしまいます。また、加害者の人生も大きく変わってしまいます。なくなるべき問題ではありますが、その線引きの難しさや、受け取り方の個人差もあり、定義が明確にできない問題でもあります。一

この問題を関係性の面からとらえることが、被害、そして加害を与えてしまうことを防ぐきっかけになるとも感じます。

この問題の根本には、加害者側にある、環境や相手をコントロールしたいという欲求がベースにあると考えてよいでしょう。そのための手段として使うもの、が多様になってきますし、被害者側の「嫌だ」という感覚の持ち方も個々に異なるために、ハラスメントの種類というのは広がっていきます。

普段からこの関係性を意識しておくことは、とても大切なことです。多くの場合、仕事や家族、カップル、組織など、所属するグループ内で起こることになりますので、その関係性をよく「知る」ことが大切です。

仕事の場合、上下関係あるいは取引関係の中で起きることが多くあります。仕事の結果をコントロールしたいがために、その妨げになる対象を非難してしまう場合や、その対象に対して自分の感情や欲求を乗せてしまう場合などが起こりえます。前者はパワーハラスメントやモラルハラスメント、後者はセクシャルハラスメントなどに発展することが想像できます。

この時、加害者になりたくないとするなら、コントロールする部分が何かをしっかり把握しているのかを自問することが大切です。仕事の結果であり、プロセスでもあるのですが、予定通りの結果を得られないときに冷静な自分でいられるのか、がポイントになります。もし、感情に任せて対応するようなら、それはパワーハラスメントの方向へ舵を切り始めていることになります。

一方で、被害者側で考えてみると、自分は下の立場である、あるいは言いたいことを言ってはいけない立場である、あるいは、仕事をうまくてきていない、とい後ろめたさを持ち始めていることが多いようです。もちろん役割的に下ではあるのですが、役割と自分の存在がイコールになってしまうことが多いようです。結果を出せなかった事実はその通りかもしれませんが、その気持ちを強く持ちすぎていることです。

セクシャルハラスメントの場合は、加害者側の欲求がベースになり、さらに相手の気持ちを読み違えることで、問題行動となっていきます。相手が「嫌だ」という気持ち以上の支配欲が出てくる、あるいは、本当はそうは思っていない、という勘違いが生まれてくるわけです。この場合は、パワーハラスメントなどの役割のパワーだけでなく、ターゲットとされるという見えない不安が出てきますので、被害者の方にとってはとても恐ろしいものになります。

このハラスメントの問題、瞬間的に発生することは基本的にはありません。小さな積み重ね、時間をかけての気持ちの熟成があって、ハラスメント行為が徐々に生まれてきます。そして問題なのが、コントルールできない状況が続けば、その行為はエスカレートしていく、ということです。

加害者になりたくない方は、自分の考え・行為を客観視してくれる人を持つこと、これは抑止力としてとても大切です。上手くいかないときに、気持ちがあれるのは仕方のないこととして、どんな行動を選ぶか、そこを客観視できる存在がいることが大切です。言い方を変えれば、個人化が進んで、そういう関係性がなくなってきている、あるいは、水面下で事を進められる状況が作りやすい環境になった、とも言えます。

誰しも被害にあいたくないわけですが、普段から、相手との関係性に役割の上下の他に、コントロールされているような気持ち、変に先回りされているような感覚、感情を乗せて話をされているような感覚、そういう部分を意識されると、その危険を見つけやすくなります。特に先回りされている部分は、いい人、と勘違いしてしまう部分でもあります。その対象が自分だけであれば、少し注意をしていいかもしれません。

みなさんは、ハラスメントをしているのでは?と不安に感じることはありませんか?

コミュニケーションが大切、というのは当たり前のように言われています。意識しているかたも多いと思います。一方で、このコミュニケーションというものがうまくいかないことで、問題が生じることもあります。

意識しているのにうまくいかない、そんなことはないでしょうか?

このコミュニケーションの中で、特に聞く、あるいは聴く、という言葉で表現される、受ける部分が特に大切になってきます。正しく受け取れなければ、偶然を覗いて、何を返してもかみ合うことはないからです。

この聴く(以降はこの表現)、ということ、いったいどういうことなのでしょう。話を聴く、それだけだよ、と思うかたもいらっしゃいますが、実は聴くということ、決して簡単ではなく、むしろ練習や訓練をしっかりしておくべき、コミュニケーションの基礎になってくるものなのです。

なぜ、聴くのか、ということを考えてみれば、理解する、ということが本質とも言えます。何かしらの課題があって、情報収集として訊くであれば、情報の授受でもあるのでまだシンプルです。実際にはこれも上手くはいかないことが多いのですが。。。。

この、理解する、というところは、実は解釈と間違えやすい部分になります。コミュニケーションには、言語と非言語がありますが、言語でのやりとりが社会の中では多くなります。この言葉ひとつとっても、全てが辞書に書いてある定義通りの意味、でやりとりされているわけではないという現実を知る必要があります。

言葉は、話し手の中で、経験を元に選ばれたもの、それを受け取った側が、自分の経験を元に解釈するわけですが、この経験が違うということがまずは大前提になります。また、非言語の相手の表情や態度、そして自分の態度というものがどんな影響を与えているのか、その点を踏まえて、解釈を理解に変えていくために、話し手が経験を元に選んだ背景を受け取る必要があります。

そんなことをいちいちやっていられない、そんな気持ちは当然だと思いますが、この影にはコミュニケーションの目的が見え隠れしています。多くの場合、求めている結果があるわけです。仕事を進めたい、支援の形を決めたい、次の作業に進みたい、時間がない・・・・、いろいろな理由はありますが、受け手が結果を求めようとするあまり、話しては置いていかれてしまいます。なぜなら、結果に進むため、答えありきの話や、相手を説得するための聞き方になってしまうからです。

受け手が主導のコミュニケーションは、ほとんどの場合といっていいと思います。多くの場合、上司、親、あるいは夫、妻、支援者、先生・・・・何かしら暗黙の立ち位置が上位にいる方が多くなります。もちろん、そこにはやらなくてはいけないことや、仕事の期限、その日の作業など、合理的な理由は存在します。

それでも、話し手は人であって、その存在をないがしろにするコミュニケーションこそ、非常に不条理と思うのです。

その人が話す言葉の背景を受け取る、解釈から理解へ、一歩でもコミュニケーションが変化すればと感じます。

皆さんは、話を本当に人の聴けていますか、理解しようとしていますか?

夫婦や家族の関係がある程度続いていくと、日々の生活の忙しさの中で、知らないうちに気持ちが離れてしまったり、ボタンを掛け違ってしまうことがあります。

かといって、急にもう一度、関係を良くしようと思っても、なかなか言い出せなかったり、恥ずかしくて気持ちを言えないことも多くあります。そんな中途半端な関係の中で、時間が多くあるGWは、ありがたくもあり、息苦しくもあったりするものです。

旅行に行っても高いし一過性の改善、人が多くて余計に関係を悪化させてしまうかもしれない、そんな気持ちをお持ちでしたら、時間のとりやすいGWだからこその関係性改善のための対話を行ってみませんか?

もしも家族の皆さんが、今の状況を少しでも良くしたいけど、どう理解しあえばいいかわからない、そんな気持ちがあるようでしたら、ぜひご検討ください。

開催日 : GW期間中のご希望の時間 (3時間程度)
料金   : ¥24,000(税込み)
場所   : ご自宅または近隣の公共の場所
対象   : ご夫婦、ご家族で関係性を改善したい思いのある皆様
       (埼玉県南部を起点として訪問できる範囲になります)
内容   : ご希望のテーマに合わせて複数との対話またはカウンセリング、簡単な心理テストなど含む予定です。ご予算については事情などによりご相談ください。

まずは、お気軽にお問い合わせください。

生きる、ということに関わらせて頂きながら、その手強さを感じる概念に、「時間」というものがあります。

この時間は、普段は時計という物差しを使って理解することになりますが、これはどちらかというと未来に対して使いやすい理解であって、今、にはあまり役立たないように感じています。いつ、どこで、という考え方は、仕事や人間関係の中で必要になるものではありますが、面接の現場ではそれ以上に重要になっていく部分もあります。特に、必死でもがきながら歩いている方ほど、時計という物差しでは測れないものです。

TAの創始者であるエリックバーンも、この時間の概念については、著書の最初の段階で大きな問題にしながらも、時間の構造化、という考え方以降、話題の中心にあがることが少なくなります。大切でありながらも、扱いにくい分野なのではとも感じます。

時間、これを生きることにつなげてシンプルに表現するならば、時間をどう使うか、時間をどう潰すか、それが生きること、とも言えると思うのです。生を受けた全ての人に分け隔てなく与えられるものは、命であり、それは生きる時間であるとも捉えることができます。その時間をどう過ごすのか、それが実は人の本質的な命題でもある、というのは大げさではないと思います。

人は、成長、向上心を糧として先へ先へと進んだ結果、社会を構造化し、構造化された社会が予測・予定を前提に動くようになり、それは時計で測る時間が前提になり、その流れに入れない場合ははじき出されてしまうような仕組みになってしまっています。

はじき出されてしまった人にとって、この時間と向き合うということは、途轍もなく途方もない作業になることになります。仕事や家庭を営むためのルーチンがなくなる、あるいはかなり制限されることになり、行動で構造化できない時間は、思考で構造化することになります。ところが、思考での構造化をしようとすると、哲学的にあるいは、ある一点をとことんまで突き詰めてしまうことにもなります。

望む、望まないに限らず、はじき出されてしまった人にとって、突然襲ってくる有り余る時間、先の見えない時間は、時計という物差しの意味を無くし、果てしない永遠に続く恐ろしいものに成りかねません。こういった面接の場面では、常識や一般論はまったく意味をなしません。社会性や向上心、ポジティブ思考なども、時の深淵に飲み込まれていきます。

そんなときに大切なのは、何かをすることや何かを解決することではなく、そこにいる、ともにいる、それが物理的でないとしても、そこが出発点になると考えています。

問題は解決しなくとも、その一瞬を共有することができれば、それこそ時間の概念を超えた安心や関係性が生まれるように思います。懸命に命と向き合う人にとって、ほんの小さな小さな希望のかけらになれたらと、面接の場面では考えています。

皆さんにとって時間はどんな意味を持ちますか?

私自身専門家として意識していることでもあり、ちゃんと出来ているのだろうか、と自問するテーマでもあり、面接のたびに振り替えるテーマでもあります。

DVやストーカー、あるいは性犯罪の被害を受けた方にとって、支援体制が充実し始めているとはいえ、決して十分なものとは言えません。その対応を専門家、という観点で考えてみると、専門家が専門知識という営利な刃で相談者を傷つけてしまうことがあります。その刃はその専門家の方にとっては、当たり前のことかもしれませんし、常識なのかもしれませんし、現実的なのかもしれません。

それは相談者の観点で見たときに、現実的なのか、はまた別問題だと思うのです。実はとても簡単な話でもあるのですが、専門家にとっての優先と、相談者にとっての優先があって、どちらの優先しているのか、ということなのです。多くの場合、専門家の優先がとられているように感じます。多くの場合、相談者はそれ以上、そこには行きませんし、その時の思いを伝えることもありません。その結果、気づくことができず、専門家が同じことを繰り返しているようなケースもあるようです。

私自身、相談者の方と支援関連の組織に伺ったり、後で状況を確認したりするのですが、残念ながら、失望に包まれることが多くあります。入り口の段階で相談者、つまりは被害者とその時点で思われる方に対して、なんの意図があってか根掘り葉掘り聞くだけ聞いて相談者の落ち度を指摘するケースが多いことです。また、相談のアポイントを受けておきながら、うちに来られても対応できません、と突き放したケース、あるいは、そんな過去を振り返るより未来を向きましょう、などと正論だけの対応を返す場合、様々な対応を目の当たりにし、その対応が専門家の手によるものだ、ということがとても残念なことです。実際には専門家の杓子定規的な対応が起点となって、その後の人生が大きく狂ってしまうことも起きてしまいます。

専門家の武器は、専門知識であり、その専門知識で相談者を支援することが役割ですが、その専門知識は凶器にもなることは意識しなくてはいけません。専門家である以上、相手が受け取ることができるボールを投げる、それこそが専門家が専門家である意味だと思うのです。

DVやストーカー、あるいは性犯罪、福祉や心理を含めた他の様々なケースで相談が必要な方は、人生の中で大きな衝撃を受けている状況でもあり、そこに向き合おうとすること自体が、とても勇気と力のいることです。その奮い立たせた勇気を摘み取るのが専門家であることがとても悲しいことです。

専門家には、専門知識+想像力というものが必要だと感じます。だからこそ、専門家は人の心を学んでほしい、そう思うのです。

何をやろうとしても不安が襲ってくる、そういう方は比較的多いと思います。そういう気持ちがあることを隠して、気づかれないように、指摘されないように、そのために懸命に努力している方もいらっしゃるでしょう。

なんとかして不安を消したい、何度も何度もどう思いながらも、その一歩が踏み出せず、あるいは踏み出そうとすることが不安を生んでしまう、そんな悪循環とも言える中で、精いっぱいの努力をされていることが多いようです。

不安というのは、過去をエネルギーにして未来からやってくる、と私は考えています。ひとりひとりが精一杯生きてきた積み重ねの中の経験が、未来へのブレーキ(不安を感じる)となってしまうことがある、そんなイメージです。それをはずしてブレーキを緩めることがある意味解決策なわけですが、ちょっと立ち止まって考えてみることも大切に思います。

そのブレーキは大切なのではないか

という単純なことを考えてみることです。もちろん、外すことができれば、進むことができます。それはいいことにも思えますが、一方で、そのブレーキがあったからこそ、今までやってくることができた、という側面も必ずあるわけです。

自分ではない誰かの生き方、歩き方と自分を比べてしまうこと、あるいは現状がダメに感じてしまう、誰かの言葉が重くのしかかり、ブレーキを外さなくてはと感じてしまう、そんなことも多くあります。

そうなりたい、と思う気持ちはとても大切ですが、比較する必要もなく、競争することには限定的な意味しかないと思うのです。それよりも、今までそのブレーキをかけて歩いてきた自分自身を認めてあげること、理解してあげること、そして感謝すること、それが最初のように思うのです。

そうやって、大切だったと感じることができたなら、ここから先は、ブレーキをかけない選択を持つこと、そして、その選択肢から選ぶこと、になってきます。

不安はここまで歩いてくるために必要だった武器、そう考えることで、今の自分が少しだけ楽になるのなら、不安を手放す必要もないと思うのです。

精一杯歩いてきた自分自身の武器に、ほんの少し感謝してみませんか?そこから次の一歩を歩き始めることも大切だと思うのです。

自分を変えたい、今度こそ変えたい、そんな気持ち、起きることありますよね。もっと人とうまく関わりたい、自分がダメに思える、日々の変わらない生活・・・・・多くの方が、いろいろなシーンで思うことです。

基本的に前向きなモチベーションでもあり、止める理由もないわけですが、少し斜めから見てみることも大切なのではないかと感じます。

自分を変えたい、を異なる表現に置き換えると、自分の〇〇が嫌、ということになります。もちろん、全部変えたい、という思いのある方もいるかもしれませんが、ここでは、〇〇が嫌、という前提があるケースで考えてみたいと思います。

例えば、〇〇には臆病、という言葉が入ることもあります。何をするにしても、一歩踏み出す勇気がない、自分で動けない、など、臆病で何もできない、臆病な自分はダメだ、治そうと思っても治せない、そんなことを感じている方もいらっしゃいます。

変えなければならないという気持ちは、臆病をクローズアップし、変えることができなくなるほど巨大な思いになっていくように思います。それは、ますます、自分はダメという思いを強化することになり、変わろうと思えば思うほど変わることができない、ということになっていきます。変わりたい思いとは真逆へ向かってしまうことも多くあるように思います。

穿った見方を含めて、様々な見方があると思いますが、私は少なくとも、〇〇の意味(前述の場合は臆病の)を大切にしたいと常々思います。

そもそも、〇〇は弱点以前に、これまでずっと生きるために必要だった武器であったと言っても過言ではありません。それがなければ、もっと大変だったとこもあったかもしれません。兄弟や友人、あるいはタレントやアニメのキャラクター、様々な比較対象を認識したことで、臆病という特徴に優劣(劣をつけたわけですが)をつけるわけです。

そう考えたときに、〇〇という特徴が、生きてくるためにどんなに大切だったのか、をよく聞かせてもらうことは、その方にとって重要だと思うのです。そして、認識こそが、スタート地点の把握だと思うのです。より良い一歩のために、正確なスタートの認識は重要だと考えています。

あたなは、スタート地点を正確に認識していますか?