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あの時は苦しかった、あの時は辛かった、振り返ることができること、どんな方にもあると思います。それは通り過ぎた出来事であり、今ここでの出来事は、また異なるものになっている状況になります。

ところが、この渦中にいる場合は、なかなかそう簡単な状況ではありません。その人にとっては人生のすべてに影響を与えてしまうような問題であり、その苦しさ、辛さが理解してもらえずに、さらに追い込まれる状況になることも多くあります。冷静な時であれば、いろいろな選択肢を並べて、しっかり選択できるような方であっても、その渦中にいるときには、それができなくなってしまいます。

また、選択肢が並べられないような状況ということも当然起きてくるわけで、その時はあらゆることを手放していく経過をたどることが多いようです。その時の夢や希望、描いていた未来、可能性、そういったものを手放さざるを得ない状況ということです。それは、当事者にしかわからない苦しみであり、暗闇でもあるかもしれません。

一方で、その周囲にいる人は、どうにかしてあげたい、という思いでいるわけですが、その選択がうまくいかないことになることも多くあります。

その時の出来事を解決するのか、解決しないのか、受け取るのか、受け取らないのか、あるいは背負って歩くのか、様々な表現はありますが、それを選ぶのは当事者にしかできないことであるわけです。周囲の人が何かしてあげようという気持ちはポジティブであっても、当事者の選択の過程に寄り添うことを忘れてしまっては、逆効果になることも多くなります。

大きな出来事を体験する中で生きている、解決したしないだけではなく、その出来事があったという事実を持ったままで歩いてく、その過程の中で変化していく気持ちをふくめて、その当事者にしかわからない思いを、しっかりと理解しようとする努力をなくしてはいけないと思うのです。

その努力の先に、当事者にとって起きた出来事、その問題が進行形であったとしても、その過程に寄り添い歩いていく、大切な存在であればあるほど、その意識は大切になってくると思います。もちろん、その在り方は、自分を捨て去って相手に合わせていくことでもないわけです。そのバランスが、人間関係なのかもしれませんね。

もっと急いで、もっとしっかり。

仕事をしていても学校の中でも、社会の時間の流れというものは人を追い立ててしまうことが多いものです。向上心という肯定的にとらえられることですら、他者を攻撃するツールになってしまうことが日常の中に当然のこととして埋め込まれていきます。誰しも、もっとよく生きたい、今よりもよく、という気持ちはあって当然のものかもしれません。それが成長に繋がっていく一部とも言えますし、それがモチベーションになることも当然と言えます。

一方で、その向上心は、そこに社会的な目的がない場合には、強烈なエゴとして存在していきます。そのエゴが自分の内側に向いているうちは、その人の動機づけになりますので、プラスの動きをしていきます。しかし、それが周囲に向けられたとき、強力な凶器・狂気となってしまうことがあります。

同じグループ、組織などに属している場合、同じ方向を見ることは大切なことですが、同じレベルを求めていくことはとても恐ろしいことでもあります。多くの場合、「努力が足りない」「やる気がない」などと非難され、挙句、「才能がない」「おかしい人」と偏見が強まっていきます。

ところが実際にはそんなことはなく、その人の置かれた状況の中で、最大限の努力をしていることのほうが多いわけです。その努力の質や客観的に見える「見え方」が、自分の思いと異なる場合、その向上心は凶器となって襲っていくことになります。そして多くの場合、その向上心は肯定されてしまうことになります。

人には人のいきる速度がある。

それはその人の置かれた環境であり、育ってきた過程であり、体験の積み重ねの上の経験であり、その生き様すべてが含まれています。それは評価すべきものではなく、認め受け入れていくものだと信じています。結果や成果が優先されることは社会の中で当然起こりえる部分でもありますが、結果や成果のために誰かの生き様が否定されるのであれば、それは違うと思うのです。

生きることは、その人の歩みであり、誰かに速度をコントロールされるものではありません。多くの違う速度があるからこそ、多様な見え方と、人の成長に必要な速度が生まれると思うのです。速さ、が優先される世界ではなく、生き様が優先される、加速することだけが善ではない、そんな空間、そんな場所でありたいと、ヒトらぼでは考えています。

様々な情報が簡単に手に入る中で、発達障がいというキーワードも多くの検索結果を得ます。自分はどうしてできないのか、なぜこんなに苦しいのかと悩みながら探す人、仕事を任せる立場として、どうやったらいいのだろうと考えながら探す人、それぞれがなんとかしようという思いに他なりません。カウンセリングの現場でも、私は発達障がいなのでしょうか?、〇〇さんは発達障がいなのでしょうか?という問いは増えてきているように思います。

もちろん、発達障がいかどうかは適切な医療機関の診断が必要になりますが、何かしらとっかかりが必要な状況であることは間違いありません。こういったケースで少し意識して欲しいことは、発達障がいの傾向は、実は多くの方に多かれ少なかれあるということです。世に出ているチェックシートを見れば、なんとなく当てはまるところは多い物です。その強度や周囲の環境によって生きにくい部分は人によって異なります。

ここでひとつ忘れて欲しくないことは、発達障がいが明確に当てはまらなくとも、明らかに強い特徴がある方がいる、ということです。それは、「感度の高さ」という特徴であり、「敏感」とも言い換えることができます。カウンセリングの現場でも比較的多いと思いますが、この敏感さ、というものは、周囲から見れば心配しすぎ、気にしすぎ、と取り合ってもらえないことが多く、本人の中では精神的な負荷が非常に高くなるという、なかなか理解してもらえない問題があります。気遣いが出来て、周りをよく見て、そんな特徴を合わせ持つことが多いため、余計に助けの手を差し伸べてもらえないわけです。

これは、他の人が気づけないことに気づく気からであり、他の人が "1" にしか見えない物が、たとえば、"0.1" 刻みで見えてしまうということです。わかってもらえないことですが、情報量が人の10倍であれば、それを処理する力も同様に消費する、その人にとっては、何気ない一日も終わってしまえば疲弊しきってしまうようなことになるわけです。こういった方に対して、気にしすぎだよ、ということはとても残酷なことです。見えないものが見える、気づけないことに気づけるという特徴ですから、自身で感度を調整することは決して簡単ではありません。

こういったケースでは、その人の特徴に対する理解とできる限りの環境調整(実際には話し方や声かけ、振る舞い)、そしてプラスのストロークが有効に働くように思います。自分にとっての当たり前は、相手にとっては当たり前ではないかもしれない、この当たり前で忘れがちなこと、この立ち位置にいることで、自分とは異なるひとりひとりを大切にできる可能性は広がっていきます。そんな寛容さが、少しでも広がればいいと感じています。

みなさんは、なんで他の人は気にならないのか、と思ったことはありませんか?