発達障害という言葉はかなり認知されている状況になり、様々なサポートが増えていますが、一方で、発達障害と思われる人が増えている、という声も聞きます。実際に、自治体の検診や、保育園、幼稚園、小学校などで問題として扱われるケースに、発達の問題が見え隠れしている話もよく聴きます。ある程度、発達障害というものが周知されてきている、と言える状況でもありますが、学校に通い、就職していく、という流れの中でなかなかうまく行かないケースも増えている印象です。

情報も書籍中心だったものから、SNSやブログなどを経由して入手できる量が増え、受け手が発達障害、というキーワードで考えることも増えています。そのような環境は、自分も発達障害なのではないかという疑問を生む土壌でもあります。30代後半以降の世代では、子どもの頃にはその概念が十分広まっていなかったこともあり、最近の情報の中で、自分何かしらの発達障害の可能性があったことに気づく機会でもあります。

それは、人が保持する可能性のある機能の凸凹があることに気付くことでもあり、自分では普通であったと思っていたことが、実は違っていたのではないか、あるいは自分の子どもの発達に気付いていくとおで自分も、と思うような機会になります。

実際の相談の現場で感じることは、発達の凸凹というものは、間違いなく誰にでもあることで、発達障害かもしれないと気付く可能性が増えたことと、失敗を許容できなくなってきた環境が、その特徴を際立たせているようにも感じます。

最近では、書籍やブログなどで自身も発達障害だったかもしれないと開示するかも増えている印象です。発達の凸凹という観点で見てみれば、私自身も振り返って見ると、やはり凸凹だったという思いは強くあります。カテゴライズするならADHDに近いとは思います。飽きっぽかったり、興味が移っていったりということは当たり前で、自分の世界観に対するこだわりもあったと思います。学校の授業などは、耐えることがメインで、特に足に突然襲ってくる熱くなるような感覚、じっとしていられないような感覚と戦ったことはとても印象的です。小さな地方都市の出身だったからか特に目立つこともなく、自然が大きな力になってくれた気もします。また、最初に選んだ仕事が特徴にあっていたこと、何より周囲の人が温かかったことが、今に繋がっているとも言えます。振り返れば振り返るほど、助けてもらっていたことを実感しています。

相談の場や、人と関わる中で、うまく適応しているように見える人の中にも、凸凹のある方はたくさんいらっしゃって、今の時代なら適応が難しかったのでは、と思うことも少なくありません。

発達の凸凹は誰にでもあります。その強さはもちろん異なるでしょう。その凸凹を持って懸命に生きてきた道には、本人の努力だけではなく、多くの方の支えがあったと思います。そういった方々が、発達障害の情報に触れることで、自分もそうだったのかも、と思う機会は増えると思います。

そんな気づきの先に、人に支えられてきたからこそ、今まで気付かなかった視点で人を支えるために何ができるか、を考え行動に移してみること、それが多くの人を支える力になり、未来をも作る力になるのではないかと思います。