正しさの中の暴力性

ひとりひとり、それぞれ異なる人生を送る中で、体験することや、環境の違いから、その人なりの正しさ、というものが生まれてきます。もちろん、その正しさは、普遍的なものではなく、生きていくなかで変化していくものです。その正しさが、人から教えてもらうこと、ということもあるかもしれません。

この正しさという軸は、生きていく中で、自分の行動を決定づける、あるいは、人の言動を評価する基準として使ってしまうこともあります。対人関係の中では起こりえることで、その基準が似ていれば意気投合し、合わなければ距離を置くことが多いように思います。

愛し合っているはずの恋愛関係であっても、一緒に生活をはじめたときに、許せない、と思える行動が見えてくることもあります。それをうまく乗り越えれば問題はありませんが、許せないままで、やがて小さなきっかけで爆発してしまうこともあるようです。

この正しさ、という感覚は、自分の中で不安定に存在しているようで、当たり前のように扱っていることが多いようです。特に、そのことについて深く悩んだ経験のある人、関連する大きな出来事を経験した人、あるいは、専門的な知識を学んだ人の中に、強く存在していることが多いように感じます。

私たちのような専門職の中でも、この正しさが強くなりすぎて、大きな影響を与えてしまうケースも見受けられます。専門家が伝えてしまう正しさは、通常のそれを大きく超えた強さを持ってしまうために、相手にとっては強い暴力性として伝わることがあります。その可能性を常に感じられる感覚は大切なのですが、使命感や責任感などを極端に強くもってしまうと、そこに気づけずに突っ走ってしまうこともあるようです。

知識にしても、専門性にしても、常識にしても、そこにはパワーが存在しています。そのパワーの大きさを関係性の中で意識していないと、相手をひどく追い込んでしまうこともあり得ます。その結果は、多くの場合、望んだものではない形になります。

対人関係であれ、専門性であれ、自分の中の正しさを、関係性の中でどう表現していくか、うまく使うことができれば、もっと楽になる、そんなふうに感じています。

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