普段あたりまえのことが、当たり前でなくなる、そんな秩序が乱れた状態の中に置かれてしまうと、人の気持ちは揺れてきます。通常であれば気にならずにいられるようなことでも、大きな不安になってしまうこともあります。その不安が、真実である、そう思わせるような情報に敏感に反応してしまい、さらにその不安を強めてしまうこともあります。これだけ情報が形を変えて発信され、乱立する状況では、真偽の判断をするまもなく流され、受取ってしまうこともあります。その不安自体は、自分自身の警報といってもいい物ですので、持ってはいけないものでもありません。ただ、それが強くなりすぎると、自分自身を追い詰めることになりますし、周囲や社会に対する警戒に繋がっていくことにもなります。
不安を解消するためには、正しい情報、を持つことが役立ちます。しかし、不安は未来からやってくることがほとんどですので、未来の確実な情報というのは難しい物です。さらに、真実が見えない状況であれば、不安はさらに強くなり、自身の行動の選択肢を持つことが難しくなります。そうなると、何かをすることで小さな瞬間的な安心を積み上げようとする行動も起こってきます。
行動の選択肢というものは、不安の対象が大きくなればなるほど、身近な手の届く行動に集中してしまうことが多いように思います。例えば最近の生活必需品の品切れなども、身近な行動のひとつです。社会としてみると大きな問題ですが、個としては近い未来の安心を手に入れる行動でもありますので、批判があったとしても簡単に止めることは実際問題難しいことになります。大きな不安のずっと手前にある小さい不安の解消は、より具体的で小さな安心を得ることができるものですから、それを理性だけでコントロールするのは難しいように思います。
こんなとき、具体的なシミュレーションをしていく、ということは落ち着きを取り戻すひとつの方法になります。現実的な道を具体的にシミュレーションしていくことで、思考で選択肢を増やしていくことです。例えば品薄になるものを先に手に入れる、ではなく、別の手段を考えていくこととも言えます。その手段を考えることは、無になることの影響、無ではなかったときになぜ問題ではなかったのか、それはどうやって防いでいたのか、など考えることになります。それは、不安の対象に関して、何が確実なことで、何がわからないことで、何ができることなのかを整理していく過程でもあります。
無くなってしまったマスクは本来どんな役目だったのか、何を防いでいたのか、どうやって防いでいたのか、同様に、アルコール消毒はどんな役目だったのか、何を防いでいたのか、どうやって防いでいったのか。手洗いとはそもそもなんで必要なのか、こうやって考えていく過程に中に、調べるという行為が必要になります。それは、乱立する情報を精査していくことに繋がります。それ自身が、学びになり、真偽の判断になり、考えていく訓練にもなります。
行動が抑制される環境の中、家族や身近な方で過ごす時間も増えてきているかもしれません。そんな時に、出来ることをしっかり整理していく、そのために調べ、考えていく、そんな時間を共有していくことは、大切なことだと思うのです。
その結果として、使える知識が増え、考えが広がり、今まで十分でなかった行動が習慣化できれば、不安を和らげることに繋がるでしょうし、不安に対する耐性や適応力が、ほんの少しでも増すのではないかと考えています。
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